清和天皇から三浦梅園に至るまでの流れ
畏れつつ記載せず清和天皇 (嘉祥3年3月25日(850年5月10日)~ 元慶4年12月4日〈881年1月7日))貞純親王 (貞観15年(873年)? ~ 延喜16年5月7日(916年6月10日))源経基 (延喜17年?(917年)~ 応和元年11月10日(961年12月30日)源満仲 (延喜12年4月10日(912年4月29日)~ 長徳3年8月27日(997年10月6日))源頼信 (安和元年11月29日(968年12月21日)~ 永承3年4月17日(1048年6月1日))源頼義 (永延2年(988年)~ 承保2年7月13日(1075年8月27日))源義家 (長暦3年(1039年)~ 嘉承元年7月4日(1106年8月4日))源義親 (生年不詳 ~ 嘉承3年1月19日(1108年3月3日))源為義 (永長元年(1096年)~ 保元元年7月30日(1156年8月17日))源義朝 (保安4年(1123年)~ 平治2年1月3日(1160年2月11日))源頼朝 (久安3年4月8日(1147)~ 建久10年1月13日(ユリウス暦1199年2月9日)) ⬇ 頼朝公の喪が開けた1200年に、兄弟三人が何の故あってか(頼朝の子に決 まってる!)官位を捨て、国東半島の丸小野に移り住み剃髪して僧となり、 それぞれ法道・法行・法然と称しました。法道は子孫が絶え、法然は中武 蔵に住んで清原姓の祖となり、仲兄の法行が丸小野に住んで地名を姓とし ました。                              幾代か経って丸小野将監という人のときに現在の三浦家がある富永村に移 り住みました。更に幾代か経ち、孫左衛門義次のときにすでに大友氏から 授けられていた里正を継ぎ、丸小野姓から三浦姓に復しました。この孫左 衛門の弟、清兵衛義正が梅園の曽祖父になります。           またこのとき、家紋を三つ引両から「菅原様の氏子だから」という理由で 梅鉢に替えております。                      
屋根のついているものが梅園先生のお墓です。 他のものは、梅園先生の父君(名は義一)が亡 くなられたとき、先生が散在していたものを集 められたものです。            
墓所の一部です。
先生の墓石の拡大写真です。 右より「孿山先生墓」と書かれております。
墓碑の一部です。
正面から見た梅園先生のお墓です。 墓所へ行く参道です。かなりの急坂で12~3分 はかかると思います。最初は、話をしながら登れ ますが、途中で息が切れて話が出来なくます。若 い人でもかなりきついようです。土の部分はいま ではセメントで補強されています。      
田口正治先生の人物叢書「三浦梅園」P.11に「今
登って来た参道はずいぶん急な坂道であるが、梅
園は毎日三度父母の墓に詣ったという。老年になっ
てからでも二度はかかさなかった。それは雨の日
も風の日も、もし昼間所用があって果さなければ
夜ふけてからでも必ず実行したという。梅園の長
男修齢(しゅれい。名は黄鶴 こうかく)の書い
た 『先府君孿先生行状』(先府君は亡父のこと
です)にこのことを記し、「死ニ事(つか)フル
コトカクノ如シ。生ニ事ヘシコト知ルベシ」とあ
る。梅園は偉大な学者であったのであるが、同時
に道徳実践の真に高徳な先生でもあったことを知
る。」と、書かれております。この墓参は、先生
自身がお亡くなりになるニ日前まで続けられたと
伝えられております。            
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