注意:以下の末木剛博氏の論文は「梅園学会報第15号」所収のものである。記号
表記については、著者の意図を十分伝え得ない可能性があるので、同会報を入手
する必要がある。転載に当たってはご本人の許可された管理経路を経ている。無
断で、この論文の一部もしくは全部を転載することは禁止する。引用はネット上
の常識の範囲で許可する。なお、記号表記を正しく表示するため、この論文は固
定長フォントで見る必要がある。                     

梅 園 と へ エ ゲ ル 末 木 剛 博

一、序 論

(一) 三技博音博士の研究以来(註1)、梅園はヘエゲル(Hegel) の弁証法の 先駆者として喧伝されて来た。当時(と言うのは昭和十年代)、ヘエゲルの名は 哲学を代表するものと考えられ、その弁証法は哲学の窮極の方法ないし体系と見 倣されて居た。それ故、梅園をヘエゲル弁証法の先駆者と称することは梅園を極 めて高く評価したことになる。                      

梅園の思想を高く評価することは、今日といえども三枝博士の昔と変らない。 むしろ今日ではただその思想を尊重するだけでなく、彼の人品風格に対して人々 は探い敬仰の念を懐くようになり、没後二百年にして梅園は日本を代表する精神 的偉人の一人と認められるまでになった。                 

(二) しかし梅園の思想がはたして三枝博士の説くが如く、ヘエゲル弁証法に 類似するものであるかと言うに、その点については忽卒に断定すべからざるもの がある。                                 簡単に考えれば、梅園の「一即一一」・「一一則一」という条理の基本形式は へエゲル弁証法の「正・反・合」の形式と類似して居る。しかし立入って考察す れば両者の間には相当な相違があり、しかもその相違は梅園とヘエゲルとの根本 的態度の相違に基づくものであるばかりでなく、日本文化と欧米文化との基本的 な相違にも連なるものと考えられる。(注:「一一則一」について

(三) 結論を先に言えば、ヘエゲルの「正・反・合」の弁証法は対立闘争の理 論であるのに対して、梅園の「一即一一」・「一一則一」の条理は相補的な両全 の理論である。
このように両者の根本の性格が異なるのは、一面では両者の歴史的社会的環境 の相違に由来すると考えられる。ヘエゲルはフランス大革命からナポレオンの度 重なる戦役へ続くヨオロッパの激動期を生さ抜いた人物であるから、その思想が 闘争的な性格を持つのも当然であろう。それに対して、梅園が生を享け生涯を過 したのは春昼のような平和な徳川中期の日本であるから、対立闘争を考えること は難かしく、すべてを相互肯定的な関係として考えるのも時代の反映であろう。

(四) しかし本論文ではそのような歴史的社会的考察を試みるのではなく、も っばら梅園の条理とヘエゲルの弁証法とを形式的または論理的に比較して、両者 の特性を際立てようとするのである。

二、ヘエゲル弁証法の基本的特徴

(一) 梅園と比較する前に、あらかじめヘエゲル弁証法の特徴を概観したい。 ヘエゲルは自己の全体系を弁証法という形式で貫いて居るが、一口に「弁証法」 と言っても、それの適用される部分によって内容に相違があり、決して一様では ない。しかしその様々な弁証法に共通な一般的特徴もある。したがって以下にお いて、ヘエゲル弁証法の一般的特徴と各部分における特殊な特徴とを概観したい。

(二) 彼の弁証法には四箇の基本的特徴が見られる。即ち

(1) 彼の弁証法は「絶対精神」(der absoulte Geist)という唯一の実体 (Substantz)の自己展開の法則である。
(2) この絶対精神は弁証法を介して唯一の最終日的(自由の完全な実現と いう目的)に向って進んでゆく。即ち目的論的構造を持って居る。
(3) したがってその弁証法は最終日的へ進む精神の過程であり、過程的弁 証法である。                              (4) その過程的弁証法は「正・反・合」という三段階の過程の連鎖によっ て構成されて居る。                          

(二・一) その他、彼の弁証法は「観念論的」であるという周知の特徴につい ては更めて論ずる必要はないと思う。

(二・二) 「正・反・合」の形式は、「即自(an sich)」と「対自(fur sich)」 と「即且つ対自(an sich und fuer sich)」との三段階の過程である。しかしこ の三段階は、適用される領域の相違に応じて、内容的にも論理的にも相違して 居る。したがって次に各領域における弁証法の特殊な特徴を一瞥して置きたい。

(三) まずヘエゲルの体系は三部に分けて考える事が出来る。そしてその三部 に対応して、弁証法の三種が区別される。即ち、

(1) 『精神現象学』の弁証法(註2)--それは感覚から絶対知へ向う意 識の弁証法である。即ち直接的個別的意識から間接的綜合的意識へ向う弁証法 である。                                (2) 『哲学百科全書』の弁証法(註3)--論理学の有から始まって自然 哲学を経て、精神哲学の哲学に到る観念(範疇)の過程である。即ち抽象的直 接的な観念としての有から具体的綜合的な観念としての哲学に到る弁証法であ る。                                  (3) 『歴史哲学』の弁証法(註4)--それは精神の具体的現れとしての 歴史の未開な始源から出発して、展開の完成(自由の実現)に向う歴史の過程 である。                                (三・一) ヘエゲルの体系をこのように三部に分ける事には、もとより異論が あろう。たゞここでは、彼の弁証法がその適用される領域によって異ったもので あることを明示する為の便宜的な分類である。               
(三・二) ここで指摘したいのは、同じ「正・反・合」と言っても、或る場合 には直接的個別的なものから間接的綜合的なものに進み、或る場合には抽象的な ものから具体的なものへ進み、或る場合には未開から完成へ向って進むというよ うに、その適用の領域の相違に応じて、弁証法の内容も論理も相違しているとい う事である。                              
(四) さらに細部においてもヘエゲルの弁証法には種々の異った形式がある。 いまその若干を挙げてみたい。
(1) 有・無・成の弁証法--『哲学百科全書(註5)』ならびに『論理の 科学』(註6)の冒頭に見られるもので、観念の自己矛盾を介して進む弁証法 である。                                (2) 自我と他我と①弁証法--『精神現象学』(註7)に見られるもので、 「私」という概念が一人称自我の概念であると共に、二人称他我も「私」と言 うので、「私」は自他に通ずる普遍的なものとなるという、個別→特殊→普遍 の過程の弁証法である。 (3) 主人と奴隷との弁証法--『精神現象学』(註8)に見られるもので、 カが主人から奴隷に移り、主人が却って奴隷化するという二項関係の互換の過 程の形式である。                           

(四・一) このように「正・反・合」の弁証法も、詳細に見れば、自己矛盾の 過程のこともあり、個別から普遍へ移る過程であったり、二項関係の逆転の過程 であったり、種々の構造を持つ。したがって「正・反・合」を単一のものと解す るのは危険であり、梅園の「条理」と比較するにも、どの種類の弁証法と比較す るのかも明示しなくてはなるまい。                    

三、梅園三語とヘエゲル弁証法

(一) 最初に梅園の主著である『梅園三語』について考えてみる。このうち 「条理」の学として完成して居るのは『玄語』(註9)であるから、もし彼の思 想が専ら「条理」を明かにするものとするならば、『玄語』こそ彼の主著であり、 『贅語』(註10)と『敢語』(註11)とはこれを補足するものである、という解 釈も成立する。

(一・一) しかしこの三著はそれぞれ異った主題を扱い、三者三様の内容を持 って居る。その限りで三著は互に独立したものである。それと同時に三著は相互 に不可分に連関して、三者合して一大体系を成して居ると考えられる。

(一・二) 即ち、『玄語』は「条理」の全般的形式的な体系であり、『贅語』 は「条理」を自然界へ適用したものであり、『敢語』は「条理」を人間界特に道 徳論に適用したものと考えられる。

(一・三) このように解すれば、『玄語』は「条理」の学の基礎論であって、 方法論、形而上学、論理学を含むものであり、概括して言えば「条理」の体系の 論理学である。

(一・四) 次に『贅語』は「条理」を自然現象に適用したものとして、「条理」 の体系のうちの自然学である。

(一・五) 次に『敢語』は「条理」を人事・道徳に適用したものとして、「条 理」の体系のうちの人間学・倫理学である。

(一・六) このように解すれば梅園の「条理」の体系は三部から成るので、そ の著作が三部に分れるのは「条理」からして当然であると言ってよい。その場合、 論理学の『玄語』は「条理」における「一即一一」の最初の「一に該当し、自然 学の『贅語』と人間学の『敢語』とは「一即一一」の「一一に該当する。したが って『梅園三語』は「条理」に従って構成された体系である。

(二) このような『梅園三語』をヘエゲルの体系に比較してみると,これはヘ エゲルの『哲学百科全書』(註12)に対応すると考えられる。この著作はへエゲ ルの全思想を完全に形式的に整理したものであって、三部に分れる。第一部は絶 対精神の即自態(an sich)としての「論理学」であり、第二部はその対自態(für sich)としての「自然哲学」であり、第三部はその即且つ対自態(an und für sich) としての「精神哲学」である。                      

(二・一) したがって両者を比較すれば、

(1) 梅園の『玄語』はヘエゲルの『論理学』(註13)に対応する      (2) 梅園の『贅語』はヘエゲルの『自然哲学』(註14)に対応する     (3) 梅園の『敢語』はヘエゲルの『精神哲学』(註15)に対応する    

と考えられる。
(二・二) 梅園の体系にはヘエゲルの『精神現象学』の如き意識の展開の理論 はない。また『歴史哲学』の如き歴史の理論もない。したがって梅園の「条理」 をヘエゲルの弁証法と比較するにあたっても、「条理」を意識の理論または歴史 の理論として解するのではなく、範疇の体系として解すべきであろう。

(三) したがって梅園の「条理」とヘエゲルの弁証法とを比較するには、両者 の論理的形式的な構造を比較すべきであるが、その為には『玄語』を底本として、 そこに見られる「条理」の形式を検討しなくてはならない。

四、『玄語』の組織の概要

(一) 梅園の思想体系のうちで広義の論理学に該当する『玄語』は、彼の体系 の全般にわたって論理的形式的な整理を行って居る。したがってそれは梅園思想 のあらゆる部門を形式化して含んで居る。『贅語』の主題である自然学も、『敢 語』の主題である人間学・実践論も、すべて『玄語』の内に含まれて居る。たゞ し、そのいずれもが形式化され論理化されて吸収されて居るのである。

(一・一) いま『玄語』を現代の哲学用語で整理し直してみると、次のように 五部に分類される。                            (1) 方法論                             (2) (狭義の)論理学                        (3) 形而上学                            (4) 自然学                             (5) 人間学・実践論                         以下、各部についてその特徴を簡略に概観したい。            

(二) 方法論 『玄語』の方法論については以前発表したことがあるので(編集者注:「『玄語』 の論理(1)」のこと)、ここでは骨格だけを叙述する。それは次のように整理 することが出来る。                            (1)  消極的方法 --偏見を捨てる。                (1・1)懐疑(1) --既成観念への不信                (1・2)捨心之所執(2) --固定観念の破棄             (2) 積極的方法 --図形(玄語図)(3)と人為言語(声)(4)とを介して 認識体系を構成する。                          (2・1) 反観合一(5) --分析(剖析)(6)・相補的対置 (対待(7)・配 偶(8)・合一化(9)・全観(10))によって「一即一一」・「一一則一」(11) 即ち「条理」の構造を認識する。                     (2・2) 推観(12) --同類への類推。(異類に向って類推すると誤謬 (窺窬)に陥る)                            (2・4) 旋転観(13)--視点を変え、座標変換を行って、事物を相対化 して考える。                              (2・5) 依徴於正(14) --図形と言語とを介して構成した認識体系を経 験によって検証する。実証主義である。                 

(二・一) この方法論のうちで、ヘエゲルの弁証法と比較する場合に、特に注 目されるのは(2・1)の反観合一である。これは外見上ヘエゲルの「正・反・ 合」とよく似て居るからである。三枝博音博士も反観合一を以てヘエゲルの弁証 法に匹敵するものと考えて居る。しかし反観合一は「条理」そのものではなく、 「条理」に基づく認識方法であるから、弁証法の論理として「条理」を解釈しよ うとするならば、反観合一の基礎にある「一即一一」・「一一則一」の構造をこ そ検討すべきである。それについては後に詳論する。            

(二・二) (2・4)の「依徴於正」は梅園の実証主義の方法として極めて重 要な意味のものであり、したがってヘエゲルと比較する場合にも考慮すべき特徴 である。と言うのは、ヘエゲルには、少くとも顕現的には、実証主義の原則が欠 けて居るからであり、その点では同原則を持つ梅園思想の方がはるかに健全であ り、強靱であると言える。                        

(三) 論理学。                            

『玄語』に含まれる論理学は二種に分けて考えるのが便利かと思われる。即ち (1) 形式論理学                           (2) 実質論理学                           の二種である。                             

(三・一) 形式論理学。                         『玄語』には形式論理学的な要因が含まれて居るが、それは基本的諸概念と基 本的形式とに分けて整理することができる。                

(三・一・一) 基本的論理概念                      『玄語』に含まれる基本的な論理横念を列挙し、それぞれに現代の論理学の術 語を対応させて置く。                           (1) 反(15)=否定                          (2) 比(16)=選言                          (3) 大小(17)=内含                         (4) 各(18)=全称                          これらの諸概念は命題論理・述語論理の結合子とも解釈できるが、集合論の演 算子とも解釈できる。その程度に曖昧ではある。              

(三・一・二) 基本的論理式                       次に列挙する論理式は恒常式(tautology)である。              (1) 有則有・無則無(19)=同一律                   (2) 有者則不能無、無有則不能有(20)=矛盾律             (3) 反合成全(反合)(21)=排中律                  このように形式論理学の所謂三原則はすべて『玄語』の内に含まれて居る。  

(三・二) 実質論理学                          ここで「実質論理学」と仮称するのは、『玄語』にあって「物・事」の関係の 一般的形式であるが、それは単語と文章との関係に対応するものである。即ち  (1)物 --「物」とは単語の対象である。               (2)事 --「事」とは文章の対象であり、単語と単語との結合によって文 章が成立するように、物と物との配偶によって事が成立する。        

(三・二・一) 物(22)                         物は「剖析」(分解)されるが、それは二分法の形を取る。この二分法は「反 合」(排中律)を繰返して遂行される。それは物A0から出発してA11とA12とに 分れ、A11はA21とA22とに分れ、A12はA23とA24とに分れる。以下同様にし て進む。したがってn段階までの分肢の数は、               

t                             Σ 2・3                          i=0                               

となる。(勿論、梅園はこの数を算定して居るわけではないが、当然この結果が 導かれる。)                              

(三・二・二) 事(23)                         事は物と物との「配偶」(組合せ)によつて成立する。したがって組合せ法則 によって、n個の物のうちのr個の組合せによる事の数は、基本的には    

n! nr=------------   r!(n-r)! となる。(この数も梅園が算定して居るわけではない)。たとえばA0 が二分法 によってA11とA12とに分れる時には、事は (A0,A11),(A0,A12),(A11,A12) の三箇であるが、それは組合せ法則によれば、 32=3

である。したがって、A0から始まる物の剖析(二分法)をn段階まで進める時 に成立する事の総数は                          

t   
        Σ  2・3 
      i=0     
となる。(この数に従って「玄語図」が描かれる。)            

(四) 形而上学                             『玄語』の形而上学は、「物・事」に対応して               (1) 物の形而上学                          (2) 事の形而上学                          の二つに分けて考えるのが便利である。                  

(四・一) 物の形而上学                         梅園は「剖析」(分割)によって「物」を二分し、また二分したものを元の一 に合一することを根本の原理とし、これを「一即一一」・「一一則一」と名づけ て居る。その場合、分割されるべき根源の一としての「一元気」と、それの二分 化の根本としての「神物」が「物」の形而上学の基礎となって居る。     

(四・一・一) 一元気(24)                 「一元気」は根源の「物」であり、一切の事物はこの唯一の根源の分化として考 えられる。そしてこの唯一の根源の「一元気」は合の極として考えられる。それ 故、この「一元気」の形而上学は次の如き特性を持つ。            (1) 内在論 --すべては「一元気」の分化として考えられるので、「一 元気」は超越者ではない。                        (2) 一元的実体 --「一元気」はすべての事物の不変の根源であり、他 に依存せずに存在するものとして、唯一の実体である。梅園はそれを「一者自 成」と言う。                              (3) 無限定的全体性 --「一元気」は合の極として、如何なる限定も持 たない一全体である。それを玄語図では「一不上図」と言う。        (4) 自己包越性(自己述語性) --「一元気」は無限の全体性として自 分の内に自分を包みこむ者(自己包越者)であり、したがって自分を自分で述 語付ける事によって、ラッセル(B Russel)の逆理に陥るものであり、それ故 に限定不可能であり、「一不上図」である。このような特性を持つものとして 「一元気」は唯物論的な物質でもなく、観念論的な観念でもなく、物活論的な 生命的物質でもない。それは宇宙的理性でもなく、絶対精神でもなく、宇宙創 造の神でもない。それは全宇宙を包越する無限定的全体性である。     

(四・一・二) 神物(25)                        梅園は根源の「一元気」の二分化として、「神」と「物」との二者を設定して 居る。                                  (1) 神 --「神」とは活動作用(「活」)を持つ物である。それはさら に自動詞的活動(「天成」)と他動詞的活動(「神為」)とに二分される。  (2) 物 --「物」(「神」に対立する狭義の「物」)とは存立(「立」) する状態である。それはさらに「天・気」と「地・物」とに二分される。これ らの根本的な「物」はそれぞれ更に二分化を繰返して、一層具体的な諸概念に到 達するが、それらは形而上学にではなく、自然学または人間学に属するものであ る。                                  

(四・二) 事の形而上学

「一元気」と「神」と「物」との三箇の根本的な「物」は相互に結合して、三種 の根本的な「事」となる。即ち                       (1)「一元気」と「神」との関係 --これは「大小」または「大物・小物」 の関係である(26)                            (2)「一元気」と「物」との関係 --これも「大小」または「大物・小物」 の関係である。                             (3)「神」と「物」との関係 --これは「相反相依」の関係である。   このように「事」の形而上学は三種に分かれるが、最初の二種は一括して「大物・ 小物」の関係と考えてよい。したがって「事」の形而上学は          (a) 「大物・小物」の形而上学                    (b) 「相反相依」の形而上学                     に二分して考える事が出来る。                      

(四・二・一) 大物小物の関係                      「一元気」と「神・物」とは論理的な「大小」(内含)の関係であり、その場 合、「一元気」の全体性は「大物」また「天地」と呼ばれ、後者は「小物」また は「小天地」と呼ばれる。その関係は次の如き特性を持って居る。       (1) 大物は能動(「給」)であり、小物は受動(「資」)である。     (2) 大物は全体(「容」)であり、小物はその全体の内に位置する(「居」) 部分である。                              (3) 大物は自己の内に自己同型の写像を行なう無限者である。      (4) 小物は大物と同型な部分であり、「小天地」であり、一種の単子   (monade)である。(ただしこれはライプニッツ (Leibniz)の単子とは違っ て、単子と単子との間で相互作用をなす。)                このように「大物小物」の関係は基本的に全体部分の関係である。ただし、それ は有限な全体部分関係ではなく、無限者の全体部分関係である。それ故に、それ は一方では自己同型写像となり、他方では単子となるのである。       

(四・二・二) 相反相依(27)                       「神」と「物」との関係は「相反相依」と言われる。それは「相反」と「相依」 との二関係の複合である。即ち、                      (1) 相反 --「神」と「物」とは、一方は活動作用であり、他方は存立 の状態であるから、互に対立して居る。したがって同一物が両性質を兼ねるこ とは出来ない。これが「相反」ということである。             (2) 相依 --「神」と「物」とは相反するものではあるが、しかも両者 は相互に必要条件となって居り、一方が無ければ他方も無いことになる。この ような関係(相互に必要条件となること)を「相依」と名づける。      このように「神」と「物」とは「相反相依」の関係をなすが、普通の言葉で言え ば、それは相補的関係のことである。--この関係は基本的な「神・物」の間に 見られるだけでなく、「剖析」(分割)のあらゆる段階に見られるものである。 したがって「一元気」以外のあらゆる物が何らかの物と相補関係を成して居り、 相互依存的である。                           

(五) 自然学                              梅園の自然学はその形而上学を自然現象に適用したものである。即ち「一即一 一」・「一一則一」なる図式による二分法をあらゆる自然現象に適用したもので ある。--ここではその自然学の基礎理論と、自然学の分類とについて、極く簡 単に要点だけを述べておく。                       

(五・一) 自然学の基礎論                        自然学は形而上学に基いて二分法を自然現象に適用したものだが、その場合基 礎となるのは                               (1) 物としては                           (1・1) 天地と陰陽                         (1・2) 時処                            (2) 事としては、没露の諸概念である。               

(五・一・一・一) 天地(28)と陰陽(29)                  自然現象の全体としての「大物」が「天地」であり、その「性」が「陰陽」であ る。「天地」はさらに「天」と「地」とに二分され、さらにそれぞれが二分化を 繰返して「物」の世界を構成する。これに対して「性」としての「陰陽」は「陰」 と「陽」とに分れ、さらにそれぞれが二分化を繰返してゆく。したがって「天地」 と「陰陽」との結合は二分法の複合であり、それによって「本根精英」の如き自 然学の基礎概念が成立する。                       

(五・一・一・二) 時処(30)                       自然現象は「一元気」の流通(「通」)と充塞(「塞」)とによって成立するが その流通の形式が「時」であり,充塞の形式が「処」である。その場合、「時」 と「処」とは対立する次の如き特性をもつ。                 (1)時は気の通であり、処は気の塞である。               (2)時は活動作用の運動の形式(「運・神」)であり、処は自然現象の位場 する場所(「容・居」)である。                     (3)時は活動作用の活する(「神活」)ための条件であり、処は物の存立す る(「物立」)ための条件である。                    (4)時の現実は「今」である。それは過去と未来とを含む現在である。処の 現実は「中」である。そして宇宙の中は地球(「地」)であり、小天地として の個物の中(「小中」)は我である。                  

(五・一・一・二・一) このように梅園の時間空間論の特徴は「今中」(31) の概念にあるが、それを明示して言えば、                 (1)彼の時間論は「時間現在説」とでも言うべきものであり、過去も未来も 常に現在の内にある、とする。                      (2) 彼の空間論は二重になる。即ち、                 (2・1)宇宙(「大物」)として見れば地球中心説である。        (2・2)小宇宙(「小物」)として見れば、自我中心説である。     

(五・一・二) 没露(32)                        自然現象の「物」に対して、「物」と「物」との関係は、先に形而上学の項で 述べたように、「相反相依」即ち相補的関係である。その一種として特に目立つ のが「没露」である。これは一方の物が姿を消すと他方の物が姿を現わし、一方 のものが姿を現わすと他方のものが姿を消すという相補的な関係であるが、それ はルビン(Rubin) の図における背景と図柄との関係のように、相互に入れ変る ような関係である。                           

(五・二) 自然学の分類                         次にこのような基礎の上に立って自然学は三部門に大別される。即ち     (1) 宇宙論                             (2) 博物論                             (3) 人間論                             このうち、第三の人間論は「人間学・実践論」として独立に考えられる部門であ る。                                  

(五・二・一) 宇宙論                          梅園の「宇宙」(33)についての理論は大体物理学に該当するものであるが、そ れは対立する「天」の理論(天体論)と「地」の理論(地球物理学その他)に分 れて居る。即ち                              (1) 天は回転(「転」)し、地は平衡(「持」)を保つ(34)       (2) 地(地球)は宇宙の中心(「中」)であり、天はそれを取り巻く外側 (「外」)である(35)。                         (3) 天の気は清く澄み(「清」)、地の気は濁って居る(「濁」)(36)  (4) 天体は東運・西転の二種の回転運動を為し、地球上の物は上昇・下降 の二種の直線運動をする(37)。                      (5) 天体は回転運動をするので、その特性は「円」であり、地球上の物は 直線運動をするので、その特性は「直」である。次にその地球上の物について 論じて居る。それが博物論である。                   

(五・二・二) 博物論                          梅園は天体(「天」)に対して地球(「地」)上のものは濁って居ると言う。 しかしその地球上のものにも相対的な清濁がある。即ち、           (1) 地球上の上部にあるものは清く澄んで居る。それは「雲」や「雨」で ある(38)。                               (2) 地球上の下部にあるものは濁って居る。この潤ったものは二種に分れ る。即ち、                               (2・1)「実質」を持つものは「土石」(無生物)(39)である。      (2・2)「虚質」を持つものは「動植」(生物)(40)である。 --この生 物はさらに動物と植物と二分する。                    (2・2・1) 動物は「神気」(活動力)を持ち、植物は「本気」(生命力) を持つ(41)。                              (2・2・2) 動物は「有意」(有意識)であり、植物は「無意」(無意識) である(42)。この動物の一種として人間が考えられて居る。        

(六) 人間学・実践論                          『玄語』における人間学は自然学の一部として成立し、さらに人間学に基づいて 実践論が成立する。                           

(六・一) 人間学(43)                          人間は天地のなかにある物の一種としての生物の一種であり、生物のなかの動 物の一種である。しかし他の動物と違って、人間には自由選択(「択」)(44)の 能力があり,「言語」(45)「意智」(46)の能力に依って、学習する事が出来る。 このような人間の特性を含めて、『玄語』に見られる人間の構造を概観すると次 の如くになる。                              (1) 大物としての天地(宇宙)のなかで「天」と「人」とが分化し「天」 は「公」(普遍)(47)であり、「人」は「私」(個別)(48)である。     (2)「人」は「物」と「神」との二要因からなる。            (3)「人」のなかの「物」は「無意」(無意識)(49)であり、「人」のなか の「神」は「有意」(有意識)(50)なる作用である。            (4)「無意」なる「物」は「人」のなかの「自然」(51)であり、自動詞的に 生成(「成」(52))する。これに対して「有意」なる作用としての「人」の  「神」は事物に働きかける行為(「為」(53))を行い、事物を人為的に変えて 然らしむる(「使然」(54))のである。                  (5) したがって「人」は「自然」の「成」と「使然」の「為」との複合に よって、「私」(個別的)なる結果を生ずる。               (6) 「人」の「有意」なる作用としての「神」は不可避的な「情慾」(55) と自由選択(「択」(56))の出来る「言語・意智・学習」とに分れる。「情慾」 は動物にも備わって居るが、自由選択に基づく「言語・意智・学習」は人間固 有の能力である。そしてこの「情慾」と「言語・意智・学習(57)」との複合に よって「人」の行為(「為」)が成立する。               

(六・一・一) このように,梅園の人間学は自然学の延長において考えられ、 基本的な二分法によって構成される。しかし人間固有の能力として「択」(自由 選択)とそれに基づく「言語・意智・学習」とを認めて居り、そこに単なる自然 学とちがう人間学の特徴があり、またそこに実践論の基礎がある。      

(六・ニ) 実践論                            梅園の実践論はその人間論に基づいて、人間の「私」の行為を「天」の「公」 (普遍性)に一致させる事にある。即ち                   (1)「人」は自己の内の「無意」なる「自然」の「成」と、「有意」なる自 由選択(「択」)による「使然」(能動的作用)の「為」との複合によって、 「私」(個別的)の結果を生ずる。                    (2) この「私」の結果が「天」の「公」(普遍性)に一致すれば、「人」 の行為は「善」(58)であり、両者が一致しなければ、「悪」(60)である。即ち 「善」は普遍性に称う個人の行為であり、「悪」は普遍性にそむく個人の行為 である。                                (3) 悪を行うのは「小人」(60)であり、善を行うのは「君子」(61)である。 (4)したがって「君子」は普遍的法則に合致するために出来るだけの努力を するが、努力の結果がどのようなものであっても、それは「天」(自然)の運 命(「命」)であるから、これを安んじて受け入れて不服を言わない(「道ヲ 人ニ尽シ、命ヲ天ニ待ツ」)。それ故、君子は「随処ニ楽シム」(62)が、小人 は運命に安んぜず、心楽しむことを知らない。              

五、玄語の条理とヘエゲル弁証法との比較                 

(一) 『玄語』の条理はヘエゲルの弁証法と類似した一面のあることは確かで ある。                                 

(一・一) しかし既に述べたように『玄語』の条理はヘエゲルの『精神現象学』 に見られるような意識の弁証法でもなく、『歴史哲学』に見られる歴史の弁証法 でもなく、『哲学百科全書』に見られる範疇の弁証法に対応するものである。  --以下、この方向について両者を比較したい。 (一・二)『玄語』の条理とへエゲルの弁証法とには、共通点と相違点とがある。 (二) 両者の共通点 梅園の『玄語』を貫く条理はヘエゲルの弁証法と極めて類似した一面を持つ。 それは次の三点である。 (1) 一者の自己展開 (2) 汎論理主義 (3) 三支構造の連鎖。 以下、順を追って考察して行く。 (二・一) 一者の自己展開。 『玄語』の形而上学の項で既に論じたように、条理の根本にあるものは「一元気」 という一者である。これに対してヘエゲル弁証法の基礎は「絶対精神」という一 者である。 (二・一・一)『玄語』の体系は「一元気」が自己を展開したものであり、その 自己展開の形式が「条理」である。それと同様にヘエゲルの全体系は唯一の「絶 対精神」の自己展開であり、その自己展開の形式が弁証法である。 (二・一・二) このように、両者は共に一元論的な形而上学である。 (二・二) 汎論理主義 『玄語』を貫くものは「条理」という唯一の論理的形式である。それと同様に ヘエゲルの全体系を貫くものは弁証法の論理的形式である。したがって両者共に 汎論理主義という特徴を持つ。 (二・三) 三支構造の連鎖 『玄語』の「条理」は「一即一一」・「一一則一」という形をして居る。これを 縮めて言えば「一即一一」であるが、これは一個の原本を二分する二分法であり、 三個の「一」から成る三支構造であり、それが繰返されて連鎖を成す。同様にヘ エゲルの弁証法は「正・反・合」という三支構造を繰返して居る。 (二・三・一) 三枝博音博士が『玄語』の体系とヘエゲルの体系とを類似した ものと考え、梅園をヘエゲルの先駆者と考えたのは、この三支構造の連鎖という 形式を両者が共有して居るからである。 (二・三・二) しかしこの外形的な類似にもかかわらず、両者の問には極めて 大きな相違があり、それは両者の類似以上のものとも考えられる。 (三) 両者の相違点 『玄語』とヘエゲルとでは外形上の相似以上に大きな相違がある。いま共通な 形式たる「三支構造の連鎖」を中心としてその相違を見てゆくと、次の如き諸点 に相違が見られる。 (1) 三支構造を支える原理の相違 (2) 三支構造の形式上の相違 (3) 三支構造の順序の相違 (4) 三支構造の目的性の相違 (5) 三支構造の過程的性格の相違 以下、順を追って考察する。 (三・一) 三支構造を支える原理の相違 『玄語』の条理は「一即一一」・「一則一一」であり、ヘエゲルの弁証法は 「正・反・合」であり、両者共に三支構造である。しかし両者を支える原理は相 違して居る。即ち (1) 『玄語』の条理は排中律に基づく (2) ヘエゲルの弁証法は矛盾律に基づく。 以下、順を追って考察する。 (三・一・一) 条理と排中律 条理の「一即一一」と「一一則一」とは具体的に言えば、「一元気」を「神」 と「物」とに二分するような形式である。これを一般化して言えば、概念Aを概 念Bと概念Cとに二分することである。その場合、A,B,Cの三概念の間には 次の如き関係がある。 (1) 二分されたBとCとは共通部分を持たず、共に真であることはない。 即ちBとCとは否定関係にある。(集合論で言えば、BとCとは相補関係(co- mplement)にある。) (2)BとCとを合併したものがAに等しい。 このような関係を梅園は「反合」または「反合成全」と言うが、これは形式論理 学の術語で言えば排中律であって、矛盾律ではない。 (三・一・一・一)排中律と矛盾律とは共に恒常式(tautology) である。その 限りで両者は等しく、相互に変換可能である。 (三・一・一・二) しかしその脈絡に関して言えば、両者の間には次のような 相違がある。即ち,命題論理に限って言えば、 (1) 排中律によれば、命題Pとその否定とのいづれかが成立する。即ち命 題Pとその否定との選言が成立する。即ち命題Pとその否定とは並存する。 (2) 矛盾律によれば、命題Pとその否定とが同時に共存することはない。 即ち命題Pと否定との連言は成立しない。 (三・一・一・三)『玄語』の術語で表現するならば、 (1) 排中律は「反合」または「反合成全」である。 (2) 矛盾律は「有ハ則チ無ナル能ハズ、無ハ則チ有ナル能ハズ」である。 条理の「一即一一」・「一一則一」は「反合成全」であって、したがって排中 律であり、矛盾律ではない。それは一なる全体のなかで、否定しあう二つの物が 並存することである。 (三・一・二) 弁証法と矛盾律 ヘエゲルの弁証法は「正・反・合」の三支構造であるが、その内容は既述のよ うに種々の異った構造を持って居る。しかしそのすべてを通じて一貫した原理は 矛盾律であって、排中律ではない。 (三・一・二・一)即ち、「正・反・合」の三支は矛盾律を介して結ばれて居る。 典型的な場合を考えれば、 (1)「正」は肯定命題である。 (2)「正」を否定する命題が現われる。 (3)否定命題を認める場合には、矛盾律によって、元の肯定命題は排除され て、否定命題が立てられる。これが「反」である。 (4)「反」のうちに、「反」を否定する第二の否定命題が現われる。 (5) この第二の否定命題を認める場合には、矛盾律によって、元の「反」 は排除されて、第二の否定命題が立てられる。 (6) この定立された第二の否定命題が最初の「正」の内容を温存する場合 には、この第二の否定命題は「合」となる。 このように「正・反・合」は二重に矛盾律を介して成立するものであって、排 中律によって支えられる『玄語』の「一即一一」・「一一則一」とは構造上異な って居る。 (三・二) 三支構造の形式上の相違 『玄語』の条理もヘエゲルの弁証法も共に三支構造であり、その点では一致して 居る。しかし前者が排中律に支えられ、後者が矛盾律に支えられる限り、両者に は大きな相違が見られるが、その相違の顕著なものは次の如きものである。 (1)『玄語』の条理は相反するものの並存的相互依存的な関係であり、した がって相互肯定的である。 (2) ヘエゲルの弁証法は相反するものの相互否定的な関係であり、対立的 闘争的な関係である。(もっとも、「合」は和解(Versoehnung) の要因を含 むとも言われる。) 以下傾を追って説明する。 (三・二・一) 『玄語』の条理は、先に述べた模型で言えば、一つの全体Aが 二つの対立する部分BとCとに分化することである。そのBとCとの間には次の ような関係が成立する。即ち (1) 排中律によって、BとCとは対立しながら、Aのなかで並存する。 (2) 既述の「相反相依」の原理によって、並存するBとCとは相互に相手 の必要条件となり、相互依存する。 したがって、『玄語』の条理は対立するものの相互肯定の論理であって、対立物 の闘争という傾向を含まず、その意味で『玄語』は極めて平和な思想である。 (三・二・二) ヘエゲルの弁証法では、「正」と「反」との間も、「反」と 「合」との間も、共に矛盾律を介して結ばれて居る。したがって、 (1) 「正」と「反」とは対立して共存することができず、一方が立てば他 方が立たないという対立闘争に立つ。 (2) 「反」と「合」との間も同様に対立闘争の関係となる。 (3) 「合」は「正」と「反」との内容を保存(aufheben)することによっ て、対立闘争を和解(versoeheben) する。しかしそれは対立闘争の後の和解 である。 したがってヘエゲルの弁証法は、たとえ和解に到達するとしても、それに到るま での途上では、対立物の相互否定による闘争を避けることが出来ない。 (三・二・三) このように『玄語』の条理とヘエゲルの弁証法とは同じく三支 構造でありながら、一方は平和な相互依存の哲学であり、他方は闘争的な相互否 定の哲学であって、その相違は大さい。 (三・三) 三支構造の順序の相違 『玄語』の条理もヘエゲルの弁証法も共に三支構造であるが、その三支の傾序 は正反対になって居る。即ち (1) 『玄語』の条理では、合から反へ進み、反から合へ還る。 (2) ヘエゲルの弁証法では、正から反へ、反から合へ、進んで、逆行しな い。 この相違を順を追って説明する。 (三・三・一) 『玄語』の条理は「一即一一」・「一一則一」である。既述の 模型で言えば、一つの全体Aが対立する部分BとCとに分かれると共に、BとC とが合してAとなる。したがって、 (1) 順行。全体Aから対立的部分BとCとへ分化し、合から反へ進む。 (2) 逆行。相反する二部分BとCとを合して、全体Aへ還る。即ち反から 合へ進む。 (3) 条理はこのように二方向を持つ。 このように条理が二方向を持つのは、それが「反合成全」という排中律の形で、 全体Aのなかに対立するBとCとの並存を許すからである。「反合成全」を合か ら反へと進めば順行となり、反から合へ進めば逆行となり、順逆両方向が同時に 成立するのである。 (三・三・二) ヘエゲルの弁証法では、 (1) 正→反→合という移行がある。 (2) しかし合から反への逆行はない。 (3) したがって一方向的な動きだけが認められる。 したがってへエゲルの弁証法は不可逆的な一方向的運動である。それというのは、 弁証法は対立物の共存を許さないという矛盾律に支えられて居るので、一度、対 立物の一方が成立すれば、他方は排除されることとなり、両者を未分の形で含む 元の姿には還らないのである。 (三・三・三) このように同じ三支構造であっても、『玄語』の条理は、合か ら反へ、且つ反から合へと順逆二方向の順序を持つのに対して、ヘエゲルの弁証 法は正→反→合という一方向的順序だけを持ち、そこに両者の大きな違いがある。 そしてこの順序の相違が次の目的性の相違にも連関するのである。 (三・四) 三支構造の目的性の相違 『玄語』の条理は合から反へと、反から合へと両方向の順序をもち、従って一 つの目的へ向うという目的論を持たない。これに対してヘエゲルの弁証法は一つ の目的へ向って正・反・合の連鎖を連ねる。したがって、 (1) 『玄語』の条理は反目的論的であり、 (2) ヘエゲルの弁証法は目的論的である。 以下、順を追って考察する。 (三・四・一)『玄語』の条理は合から反へ進み、また反から合へ進む。順逆両 方向の順序を持つ。したがって一方向的に特定の目的に向って条理が進行するこ とはない。したがって条理は先天的な目的を持たず、反目的論的である。 (三・四・一・一) 条理は二分法の連鎖によって、根源の一元気が展開する為 の形式であるが、それは一元気の展開そのものを目的とするのでもなく、展開の 最終段階を目的として居るわけでもない。したがって条理は二分法を逆に進んで、 分化から合成の方向へ向って一元気に至る認識も成立する。 (三・四・二) ヘエゲルの弁証法は絶対精神の自己展開の形式であり、それは 絶対精神の自己展開の完成を目的とする一方向的進行の形式である。それ故、そ れは明白な目的論である。 (三・四・二・一) ヘエゲル弁証法が正・反・合の連鎖によって一方向的に進 行して、その逆の方向に進まないのは、それが目的論の形式だからである。 (三・四・二・二) ヘエゲル弁証法の目的論的性格は『歴史哲学』に最も顕著 であるが、その他の部門でも同じである。 (三・四・三)『玄語』の条理とヘエゲルの弁証法とは三支構造の形で唯一実体 を展開して居るが、前者は反目的論的であり、したがって一方向的進行とはなら ないのに対して、後者は目的論的であり、最終の目的に向って進行するものであ る。 (三・五) 三支構造の過程性の相違 『玄語』の条理は三支構造であるが、それは目的に向って順序づけられたもの ではないので、目的への過程でもない。これに対して、ヘエゲル弁証法も三支構 造であるが、それは特定の目的に向って順序づけられたものであり、目的への過 程である。即ち (1) 条理は非過程的であり、 (2) 弁証法は過程的である。 以下、順を追って考察する。 (三・五・一) 『玄語』の条理は特定の目的に向って進行するものではない。 それは根源の一元気を二分し、二分のそれぞれをさらに二分し、これを限りなく 繰返して細分することによって自然界(宇宙)の細部に到達するのであるが、そ れは「一元気」の目的ではない。したがって条理は特定の目的に向って進む過程 ではない。 (三・五・一・一) 条理は目的への過程でないから、条理の各段階は目的の為 の手段でもなく、それぞれ同等の価値を持つものとして尊重される。したがって 条理の展開のなかに配置される人間も動物も植物も金石もすべて同等の価値のも のとされ、人間だけを特に価値の高いものとはしない。 (三・五・一・二) 『玄語』の条理はこのように特定の目的へ向う過程ではな いが、それ故にまたそれは歴史の形式ではない。歴史には様々な見方があるが、 すべての歴史観に共通なのは、歴史が諸事件の過程である、ということである。 したがって『玄語』の条理が過程的のものでない限り、それは歴史の理論でもな い。『玄語』は歴史の理論を持たないのである。 (三・五・二) ヘエゲル弁証法は絶対精神の自己展開の完成を目的とするので、 その正・反・合の連鎖の各段階は最終日的へ向っての過程である。その意味で彼 の体系は「過程的弁証法」である。 (三・五・二・一) この過程性は『歴史哲学』では時間的過程という見易い形 を取って居る。また『精神現象学』では意識の自覚の過程という形を成して居り、 『哲学百科全書』では範疇の複雑化の過程という形を成して居るが、いずれも絶 対精神の自己展開の完成という目的に向うための過程である。 (三・五・二・二) ヘエゲル弁証法の過程性はまたその歴史性でもある。とい うのは絶対精神が自己展開を完成する過程が世界の歴史そのものに他ならないか らである。 (三・五・三) このように、『玄語』の条理とヘエゲルの弁証法とは三支構造 という点で類似した形をして居るが、前者は特定の目的への過程でもなく、した がって歴史の理論となるものでもないのに対して、後者は特定の目的への過程で あり、したがってまた歴史の理論となるものである。 (三・五・三・一) その際ヘエゲルの弁証法は近代西欧思想の一特徴たる進歩 史観の一つの代表となって居り、弁証法的闘争を介して歴史は未開の野蛮から高 度の文明開化へと進むと主張する。そしてその理想はプロイセン王国で実現する という。 (三・五・三・二) これに対して梅園の『玄語』には歴史の理論は欠如して居 るが、したがってまた進歩史観という偏見を持たず、闘争によって理想を実現す るという戦闘的理想主義もない。梅園の世界は徹底して平和の世界であり、すべ ての相対立するものは相互依存(「相反相依」)の関係によって、対立しながら 並存して全自然は一大調和世界を成して居るのである。 六、結論 『玄語』の限界 (一) 結論 三枝博音博士に始まる、梅園とヘエゲルとの類似説については、妥当と考えら れる面と妥当でないと考えられる面とがあることを論じた。 (一・一) 両者の間には確かに極めて近似した特徴が見られる。即ち、 (1)一元論、(2)汎論理主義、(3)三支構造の連鎖という三点で両者は驚 く程近似して居り、その限りにおいて、両者は同じ類型に属する思想体系である。 近代の初期にあたって、東洋と西洋とでこのように近似した思想が現われたこと は非常に興味のある事である。 (一・二) しかし両者の間には近似すると共に大さく相違する点がある。その 相違を総括して言えば、 (1) ヘエゲルの弁証法は矛盾律を介して共存を許されない対立物が相互に 否定しあい、闘争するが、その闘争を介して世界の目的を実現することが出来 るという。 (2) これに対して梅園の条理は排中律によって対立物の並存を許し、その 並存する対立物の相互依存によって全宇宙は調和的に存在すると言う。これを 一言で表わせば、ヘエゲルの弁証法は闘争の論理であり、梅園の条理は平和と 調和の論理であり、「両全」(63)の道である。 (二) 『玄語』の限界 結論の後に附論として、『玄語』の条理の論理的な限界または欠点を少しく指 摘しておさたい。 (二・一) 条理の二分法の欠点。 条理は「一即一一」・「一一則一」なる形式を持つが、それは二分法である。 その二分法の原理が『玄語』では必ずしも明瞭でない。 (二・一・一) その理由は、二分法は類(genus)と種差(defferentia)とに よって種(species)を決定することであるが、『玄語』ではその種差の概念が必 ずしも明瞭でないからである。 (二・一・二) 種差の概念が明瞭である場合もある。たとえば、「人」と「天」 との分化は「有意」と「無意」とによって定められるが、その場合「意」が種差 である。しかし常にこのような種差が明示されて居るわけではない。 (二・二) 「反」の性格の不確実さ 二分法の原理が明瞭である為に、分化して対立する二物の間の「反」の性格が 必ずしも一定して居ない。即ち (1) 反が矛盾対当を意味する場合、 (2) 反が反対対当を意味する場合、 (3) 反が小反対対当を意味する場合、 のいづれであるかが判然としない。したがって、「反合成全」、「相反相依」等 の基本的関係も必ずしも常に厳密に定義できるわけではない。 (二・二・一)「反」の三種の場合を簡単に説明すると、(命題の関係について 言えば) (1) 矛盾対当とは、一方の命題と他方の命題の否定とが等しくなるような 関係である。 (2) 反対対当とは、一方の命題が真ならば他方の命題は偽となるような関 係である。(ただし、一方が偽である場合に、他方の真偽は不定である。) (3) 小反対対当とは、一方の命題が偽ならば、他方の命題は真となるよう な関係である。(ただし、一方が真である場合に、他方の真偽は不定である。) (二・二・二) 『玄語』の諸概念について、若干の場合を検討してみたい。 (1) 矛盾対当と考えられる場合。 --「陰陽」。(「陰」は「陽」の否 定に等しく、「陽」は「陰」の否定に等しい。) (2) 反対対当と考えられる場合。 --「時処」。(「時」は「処」では ない」、また「処」は「時ではない」。しかし「時でない」ことが「処」とな るか否か不定であり、「処でない」ことが「時」となるか否か不定である。) (3) 小反対対当と考えられる場合。 --生物(「動植」)における「横 竪」。(「横でない」ことは「竪」であり、「竪でない」ことは「横」である。 しかし「横」と「竪」との中間もありうるので、「横」が「竪でない」となる か否か不定であり、「竪」が「横でない」となるか否かは不定である。) (二・二・三) このように、『玄語』の基本概念たる「反」の意味は必ずしも 確立して居ない。しかし「反合成全」という場合の「反」は矛盾対当と考えられ る。そして「反合成全」が『玄語』の全体系を貫くとすれば、少くとも梅園の意 図としては「反」は本来矛盾対当の意味であろう、と解せられる。たゞそれが厳 密に守られなかっただけである。 〔註〕 (1) 三枝博音『三浦梅園の哲学』(『三枝博音著作集・第五巻』、中央公論 社、昭和四十七年)。 (2) G.W.F.Hegel:Phaenomenologie des Geistes(G.W.F.Hegel,Werke Suhrkamp,1970) (3) G.W.F.Hegel:Enzyklopaedie der philosophiscen Wissenschaften, Ⅰ,Ⅱ,Ⅲ (G.W.F.Hegel:Voresungen ueber die philosophiscen Wissenschaften,) (4) G.W.F.Hegel:Voresungen ueber die Philosophie der Geschichte(G.W.F.Hegel, Werke 8,9,10,Shurkamp) (5)→(4) (6) G.W.F.Hegel:Wissenschaft der Logik, Ⅰ, ss.82,f.(G.W.F.Hegel,Werke 5, Shurkamp) (7)→(2)ss.86f. (8)→(2)ss.145ff. (9)『玄語』(『梅園全集・上』、梅園会編、「明治四十五年、複刻版昭和五十四年、 名著刊行会)。 (10)『贅語』(同上)。 (11)『敢語』(同上)。 (12)→(3) (13)→(3)、Ⅰ (14)→(3)、Ⅱ (15)→(3)、Ⅲ × × × 以下、『全集』からの引用は、『全集』の上巻については、べエジ数と、上段 下段の別(上段は「a」、下段は「b」と記す)だけを記す。たとえば「2,b」 こ と記せば、『全集』の上巻の2ペエジ下段を意味する。これは『玄語』の「例旨」 の部分であるが、その事は記載しない。また『全集』の下巻については「下,89,a」 の如く記す。これは『全集』の下巻の89ペエジの上段を意味する。また『玄語』 以外の著書からの引用は著書名を附記する。たとえば、「多賀」は「多賀墨卿君 ニ答フル書」を意味する。 なお、以下の文歓駐の番号はアラビヤ数字で、1から始める。 (1) 懐疑, 2,b; cf.下, 89, a (多賀) (2) 捨心之所執,下,89,a(多賀) (3) 図,5,a (4) 声,10,a;204,a,b (5) 反観合一.7,a,b;192,b;202,b;244,b,etc.;下,89,a(多賀) (6) 剖折,18,a (7) 対待,18,a (8) 配偶,9,b,f (9) 合一,82,a (10)全観,下,100,b(多賀);Cf.見全体,6,b (11)一即一一,一一則一,20,b (12)下,227,b(多賀);Cf.推拡,227,b (13)旋転観,207,a (14)依徴於正,7,a;cf.89,a(多賀) (15)反,19,a;24,a;127,a,etc. (16)比,19,a;24,a;127,a,etc. (17)大小,3,b;38.a;189,b;201,b,etc. (18)各,257,a;38,a (19)有則有・無則無,46,a;190,a (20)有者則不能無・云々 46,a;cf.無有・有無,190,a (21)反合成全,24,a;cf.反合,67,a (22)物,25,a;30,a;69,a,etc. (23)事,25,a;30,a;69,a,etc. (24)一元気,18,b;cf.一元之気,64,a,b;cf.元気本一,203,b (25)神物,23,b;31,a;121,b;237,a (26)大小,3,b;61,a;240・a;Cf.大物,小物,61,a;etc. (27)相反相依,201,b;cf,一者自成・散者依成,77,a;cf.小之立也 有相依矣,201,a (28)天地,31,a,ff (29)陰陽,20,b,ff (30)処,50,b;106,b;110,a,etc. (31)今中,50,b;112,a;110,a,etc. (32)没露,22,a;24,b;63,a,etc. (33)宇宙,25,a;32,a,etc. (34)転持,33,a,b;36,b;37,b;130,b;131,a,etc (35)中外,110,b (36)清濁,143,a;87,a,etc. (37)運転,36,a;78,a;122,a;直往・円転,35,a;東運・西転,124,a etc.;昇降,143,a,etc. (38)雲・雨,182,b;雲雨,248,a (39)土石,248,b (40)動植,248,b;249,a;271,b (41)神気・本気,190,a;192,a,etc. (42)有意・無意,101,b;189,b,etc. (43)人,191,a;193,b;196,a;276,b;277,a,etc. (44)択,192,b;204,b (45)言語,150,a;cf.声主,8,a;35,b,etc. (46)意智,211,a;213,a (47)公,12,a;224,a,b (48)私,12,a;224,a,b (49)無意,98,a,b;189,b;191,a,b;192,b,etc. (50)有息,98,a,b;100・a;101,b;189,b;191,a,b;192,b,etc. (51)自然,33,b;46,a;50,a;99・b;211,a (52)成,23,a,b;71,b;85・b;88,b;90,a,b (53)為,23,a,b;71,b;85,b;88,b;90,a,b (54)使然,33,b;46,a;50,a;99・b;211,a (55)情慾,211,a;212,a;213,a;222 (56)択,192,b;204,b;234,a (57)学(学礼)211,a;Cf.修,211,a (58)善,212,a;224,a (59)悪,212,a;224,a (60)小人,232,a;233,b (61)君子,231,b;232,a;233,b (62)随処而楽,233,b (63)両全,102,b

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