三浦梅園の生涯



 享保八年(1723年)に大分県国東半島の安岐町に生まれ、寛政元年(1789)に

同地で没した。生涯仕えることなく、読書と著述の日々を送った。旅に出ること、

伊勢参り一回、長崎遊学二回。この生涯三度の旅以外は、ときおり杵築(きつき)

に買い物に出るなど以外は、同地で過ごした。

 幼少期より聡明であり、周囲の大人を驚かすことたびたびであったという。十

三歳の時、『和漢朗詠集』を筆写したものが、今日残されている最も古い自筆本

であると思われる。十五歳の時より詩に志し、二十一歳の時『独嘯集』(どくし

ょうしゅう)という詩集を著した。詩を学ぶに、読めない文字があればそれを書

きとどめ、月に数回、四キロばかり離れた西白寺という寺に通って、その寺の辞

書を借りて調べたという。詩作に熱心であり、詩人としての力量を持っていたこ

とを知る。以後、事あるごとに心境を詩に託した。詩は、梅園の人柄を知るに貴

重である。詩作に秀でていたばかりでなく、和漢の詩に通じ、後年江戸期を通じ

て最高の詩論と評される『詩轍』(してつ。天明元年五十九歳完成)を著した。

 『和漢朗詠集』を筆写したものを見るに、稚拙ながら筆致は明晰である。書の

大家ともなった梅園を伺うことはまだ出来ないが、既に己を自覚していたことを

知る。書は、詩と同じく梅園の人柄を知るに重要である。剛毅な精神力、透徹し

た眼力を示す筆跡は見事である。読書ノート「浦子手記」を見るに、二十代半ば

以前に、既に自身の書体を確立していたことが伺われる。

 一方、異常に鋭敏な知性と論理的思考力を持っており、天地一切を疑い、その

懐疑はとどまることがなかった。なぜ物体が上から下に落ち、下から上に落ちな

いのか、なぜ目が音を聞かず、耳がものを見ないのか、それすら分からず、思念

が胸を塞いだと述懐している。

 悶々として謎の解けぬ世界にあって思索に思索を重ね、二十九歳の時「始(初)

めて気に観るあり、漸く天地に条理あるを知る」と京都の高伯起(こう たかお

き)に宛てた書簡の中に記している。

 翌年三十歳の時より畢生の大著『玄語』を起草する。初めは『玄論』と名付け

られ、のち『垂綸子』『元気論』(文字がないので「気」を以て代用する)と改

名され、三十三歳までに改稿すること十回。この十稿目に『玄語』と命名され、

最終稿に至るまで変わらない。

 安永四年「歴年二十三、換稿も亦二十三」と書かれた「安永四年本(もしくは

たんに安永本)玄語」を完成するが、六十五歳より二十四回目の改稿に取りかか

り、未完のままこの大著を残す。これを「浄書本玄語」という。『玄論』から浄

書本『玄語』に至るまでの二十四回の改訂履歴の研究は、大分大学名誉教授故田

口正治(たぐち まさはる)博士の厳密な考証によるもので『三浦梅園の研究』

(創文社)に詳しい。

 梅園は死を目前にして、長子三浦黄鶴(みうら こうかく)に『玄語』の校訂

を遺言した。黄鶴は、梅園晩年の弟子矢野毅卿(やの きけい。名は弘)ととも

に、生涯をかけて、玄語稿本の校訂を行った。これが今日一般に伝わる『玄語』

である。これを「版下本玄語」という。出版のために準備されたものだからであ

るが、資金が足りず、大正元年に『梅園全集(上・下)』が発行されるまで、人

目に触れることはなかった。

 このとき初めて『玄語』が衆目に触れ得たのであるが、底本が「版下本玄語」

であることを断っていないため、『玄語』が三浦梅園自身によって完成された書

物であるとの誤解を広めることとなった。今日なお、この誤解は解けていない。

「歴年二十三、換稿も亦二十三」とあるのは、安永四年時点の記述で、天明七年

(1787,梅園六十五歳)より二十四回目の改稿が為されているのであるから、事

実は「歴年三十七、換稿二十四回にしてなお未完」である。

 黄鶴の校訂は、全体には不統一があり、細部には独断による変更があって、校

訂意図が不明瞭である。従って、『玄語』に関して言えば、現代にいたって百年

に及ぶ研究史がありながら、未だに研究用底本さえ定まっていないというのが実

状である。底本が定まらなければ、解釈作業は出来ない。しかるに解釈のみは屋

上屋を重ねるがごとく続けられている。これは、わが国における文献研究の杜撰

さのひとつの見本であり、欧米の厳密な原典研究に比べれば、明かな学問上の恥

辱である。

 『玄語』が未完に終わったのとは対照的に、第二主著『贅語』は歴年三十四、

換稿十五回にして梅園没年に完成した。第三主著『敢語』は、玄贅二語ほどの労

力を要さず、四十一歳にして完成した。歴年四、換稿四回であった。これらを合

わせて「梅園三語」と呼ぶ。梅園の生涯は、この三著の完成に捧げられたのであ

るが、第一主著『玄語』のみが、大きな可能性をはらんだまま、未完に終わって

しまった。

 しかしこの著作には、日本人自身が考えた日本の合理思想が明確に浮き彫りに

されており、日本の合理思想が欧米に比べて遜色ないばかりか、その欠落を補う

可能性のあるものであることが知られるのである。

 梅園は、天才にありがちな人格的偏向をいささかも持っていない人であった。

学問においては甚だ厳格であり、諸方の学者を糾弾することもしばしばであった

が、人となりは温厚で、村人の良き相談相手であり、もめ事の調停に秀れ、よく

いさかいを治めたという。家は代々医を生業(なりわい)とし、梅園自身も村の

医師であった。先祖を敬う心に篤く、父の死後、三浦家一統の墓石を一ヶ所に集

め、一日三度の墓参を欠かさなかった。これは最晩年まで続き、老齢に至ってか

らも、一日二度の墓参は欠かさなかった。

 梅園がこのつとめをやめたのは、自身の死の数日前であったという。長子黄鶴

は「死に仕(つか)ふることかくのごとし。生に仕ふること、知るべし」と書い

ている。



参考図書 「三浦梅園」 田口正治著(人物叢書 吉川弘文館)

     「三浦梅園の研究」 田口正治著 (創文社)







inserted by FC2 system